Mandala love&healing

PROFILE

 

曼荼羅アーティストのNAOです。

見る人の心の癒し、安らぎとなる曼荼羅を様々な言葉や数字でデザインしています。

私は元々デザインに携わる仕事をしていたわけではありません。私が曼荼羅と出会い、曼荼羅アーティストとして活動をするまでに紆余曲折がありました。

私の自己紹介を兼ねてお話させて頂きます。

このプロフィールを読んでくださった方の明るい希望となれば幸いです。

生い立ち

広島県尾道市に生まれ、現在も尾道市に住んでいます。

尾道と言えば、海やお寺をイメージされる方が多いと思いますが、私は海とは程遠い山に囲まれた大変自然豊かな環境で育ちました。

姉、兄とは年の離れた末っ子で、とても恥ずかしがり屋で人前で声を発したくないとっても大人しい女の子でした。

外で遊ぶより、家の中で塗り絵や折り紙をしたり、日本神話やギリシャ神話の本を読むことが大好きでした。

そして自分自身を真面目で堅実な性格と思い込んでいました。

交通手段が不便な場所なので、電車通勤などに憧れを持ち、もっと便利な都会に住みたいとずっと思っていました。

それでも不思議なもので、一度尾道を離れて生活してみると、子どもが生まれたら私が育った同じ環境で子育てしたいといつも思っていました。

離れてみて初めてその良さに気付くものだと感じました。

小中高短大時代

小学生の高学年になるとぐんと背が伸びて、体を動かすことが大好きな少し活発な女の子に成長しました。

夏休みは毎日友達と川へ泳ぎに行くのどかな日々でした。

小学生の頃、「エースをねらえ」に憧れていて、中学校ではソフトテニス部に入りました。

高校でもソフトテニス部を続け、来る日も来る日も部活で真っ黒に日焼けしていました。

顧問の先生が厳しく、冬場は体力作りと称して野球部並みにタイヤ引きをしたり、陸上部と一緒に長距離走の大会に出たりと部活一筋の高校時代でした。

短大は親元を離れての生活でしたが、2年間はあっという間に過ぎていき、就職は実家に帰るという約束で卒業後はまた尾道での生活です。

社会人時代

広島県の隣、岡山県に本店を構える銀行に就職し、銀行員としての社会人生活を送りました。

当時は3か月間は研修期間ということで定時で帰っていました。

1円が合わなくても帰れないと言われていますが、私の時はかなり機械化が進んでいたので帰りが遅くなるという事もあまりなく、色々な習い事をすることができました。

茶道・華道・料理教室・書道・着付け、その中でも茶道だけは今でも続けています。

初めての転勤は3年目の秋でしたが、仲の良い同期と離れどうして私が転勤しないといけなかったんだろうと不安な気持ちもあり落ち込んでいたのを覚えています。

でも、環境が変わると大きく成長できるんだと気付き、転勤してから今まで経験していない業務につくことが出来て、入行5年目位からやっと仕事が楽しいと思えるようになりました。

その頃から金融の自由化で、投資信託、保険商品などを銀行でも取り扱うようになり、資格がないと販売が出来ないので全員新たに販売資格を取り、商品の勉強会や研修など目まぐるしく環境が変わっていきました。

29歳で結婚し、岡山県に住むこととなり引っ越しと転勤。

さすが本店のある市内店舗は尾道の県外店舗と大きな違いがあり、感動しながら新しい環境での勤務でした。

その支店ではたくさんの方々との出会いがあり、辛いことも楽しい事もあり私の銀行員生活の中で一番思い出の詰まった所です。

妊娠・出産・退職

30歳の頃から、支店の女子行員の中でリーダー的な存在を任され、資産運用の担当者として投資信託や保険商品の店内勉強会、毎月のノルマもこなしながら後輩指導もし、プレッシャーとストレスの多い生活をしていました。

知り合いも友達もいない、頼れるのは夫だけで、当時の私のストレス発散はデパコスの化粧品を買う事でした。

唯一、私が私のために贅沢にお金を使えるのが化粧品だと思っていたので、特にラメ入りのリップやパウダー、アイシャドーは自然と気分が上がり唯一の楽しみでした。

その頃は、「ラメ入り」や「キラキラ」している物に自然と惹かれていましたが、私はこれが好きだという自覚はありませんでした。

年々役割は増える一方で、終わりのないノルマにストレスも限界だなと感じていた頃に妊娠。

つわりがひどく、ある日仕事中に出血、切迫流産で2週間の入院となり今までのように仕事ができる自信がなくなり精神的に大変落ち込みました。

その後は皆さんの助けもあり順調に臨月を迎え、臨月で仕方なく1年間の産休・育休に入りました。

出産する前は仕事は楽しかったので必ず復帰しようと思っていましたが、1年間の育休中に、仕事に復帰した場合の子どもの保育園の送迎、急に体調が悪くなったり帰りが遅くなっても誰にも頼める人もいない・・・

いくら考えても私が正社員で働き続けることは無理だと気付き、育休の終わる復帰目前に退職を決断しました。

再雇用

正社員としては退職しましたが、その後は嘱託として再雇用となり、営業店ではなく本店の事務企画部という部署に配属となりました。

事務企画部とは、銀行業務の事務の取り決め、規定の作成をする部署で、私の仕事は各支店からの事務取扱いの問い合わせに回答する電話応対でした。

間違ったことを回答したらお客様に迷惑も掛かるし、部としての信用もなくなってしまいます。

初めは慣れなくてほとんどの電話は折り返しで、私の机の上には照会電話のメモだらけで、正社員でなければ定時で帰れると思っていましたが、実際には定時ギリギリで定時を過ぎることもありました。

子どもの熱が出たら迎えに行き、延長保育の時間ギリギリの時はタクシーで迎えに行き、一体私は何をしているんだろうという自問自答ばかりしていました。

その反面、子育てから離れ、私が一人の女性として働く解放感もあり、子育てと仕事の両立に随分悩みました。

支店からの問い合わせには、私の記憶や知識が曖昧な時は調べたり、私の業務範囲外と思いながらもつい引き受けてしまったり、それでも自分に知識が増えていく楽しみと喜びがありました。

この時の経験が、その後の調べる・学ぶという事に繋がるきっかけとなりました。

子育てと仕事の両立の悩みはどんどん深くなり、私の気持ちに全く理解してくれない夫とは溝は深まるばかり。

私が私でいられない、こんな環境で育った子どもは将来どんな子になるんだろう。

ある日私は身の回りの荷物を持って子どもを連れて実家に帰ります。

そして二度と夫の元には帰りませんでした。

殺伐とした環境にいたら、私以外の誰も信用できない、笑顔のない子どもになっていました。

その後は、私の両親、姉家族をはじめ、周りの方々のおかげで笑顔の可愛い女の子に育ちました。

自立までの道のり

私が娘を連れて実家に帰った2か月後に退職をし、しばらくは娘との楽しく幸せな時間を過ごしていました。

しかしいつまでもこのままではいけないと、職業訓練校に通いパソコンの勉強をしました。

当時の銀行ではパソコンを使う機会はあまりなく、WordもExcelも使えないのでは何もできないと思いました。

3か月間の訓練校で基本的な使い方を習得することが出来ましたが、訓練校はその後の就職の為にというのが前提なので、卒業後3か月以内に就職先を決めないといけないことになっていました。

パソコンのインストラクターにも興味がありましたが、最終的には派遣社員として再び銀行で働く道を選びました。

その派遣先は以前勤務していた銀行ではなく、山陰に本店のある銀行でした。

同じ銀行業務でも、それぞれの銀行で事務内容に違いがありますがそれもあまり気にならないほどすぐ慣れました。

派遣社員として半年が過ぎたころ、娘は幼稚園に入園し、送迎は母に任せっきり、お友達のお母さん達とも参観日で会うだけでみんなは私と娘の事をどう思っているのかなと考えたりしていました。

その頃の私は、自分で決めて実家に帰ってはきたけれど自分に自信が持てず、ずっと下を向いていました。

両親や娘に肩身の狭い思いをさせているのではないかと考えたり、本当に私はこれで良かったのかと答えのない自問自答ばかりしていました。

私が働かなければという思いばかりでいたけれど、ふと家の中を見渡すと、母は疲弊しており私は娘と関わる時間もほとんどなく、母から「子どもの傍にいた方がいい」と言われハッとしました。

それから仕事を辞めて、娘を幼稚園に連れて行き、帰りは同級生のお母さんたちとたくさん話をするうちに仲良くなり、幼稚園の先生も私の気持ちに寄り添って下さり、少しずつ私の顔も上を向くことが出来ました。

その幼稚園では、年度の終わりにDVDを制作する慣習があり私が制作することになりました。

一年間の写真をスライドショーにして、田植えなどの動画を編集して音楽を付けて一本の動画にする。

初めての経験でしたが私はその時、なんて楽しいんだろう!!これを我流ではなく本格的に学んで仕事にしたいと思いました。

動画編集の学べるパソコン教室を探し、そこでデザインソフトのillustrator、photoshopも学びどんどんできることが増えて楽しくなりました。

その時がちょうど40歳で、市の特定検診を受診すると病気が見つかり、どうして私が病気にになったんだろうとしか思えずまた悩む日々を送りました。

病気からの学び

娘の為にも必ず元気にならなければ、という思いで手術までの日々を過ごしました。

病院の先生の言われる一言一言に動揺し、自分の無知と頼りなさを思い知りました。

なかなか弱音の吐けない私ですが、病気になったショックと手術の恐怖で看護師さんの前で涙することもありました。

看護師さんは、「今まで頑張ってきたご褒美に神様が休みをくれたんだからしっかり治してまた頑張ろうね」と私に寄り添い優しい言葉をかけて下さり、その言葉にまた涙が出て、家族の前では絶対に見せれない姿でした。

入院期間に看護師さんとの会話の中で、実は私はとても恵まれた環境で生活しているのにそれに気付けずいつも不満ばかりで、感謝の気持ちが欠けていたと気付きました。

不幸と思えば不幸、幸せだと思えば幸せと自分の思い方次第でいくらでも感じ方は違うのです。

病気になったおかげで今までの自分を猛反省し、新しく生まれ変わったつもりでガラッと考え方を変えました。

あんなに無知で不安で動揺ばかりしていたけれど、病気を乗り越えたことで精神的にも強くなれました。

病は気からだということを実感し、それからは常に前向きな気持ちで娘の学校の役員を引き受けたり、PTA活動のソフトバレーに参加したりと少しずつ本来の自分を取り戻したいと奮闘していました。

その頃からがん患者支援のリレーフォーライフ広島の事務局をされている病院の先生の下で事務局の手伝いを始めました。

そこでは協賛を募ったり、ポスター、チラシ・報告書を作成したり、ホームページの更新をしたりと色々と経験を積みました。

でも、本当に私のやりたい事とは違うなと感じていて、私にしかできない、私だからできることがしたいという思いが芽生えてきました。

ホームページの更新もしていたことから、私も制作する方になってみたいと思い、ホームページ制作を学ぶことになりました。

いつかホームページの勉強もしてみたいと思っていたのでとてもワクワクしました。

HTMLを初めて見たときは、私に理解できて実際に制作できるのかなと不安に思いましたが、少しずつわかってくるととても楽しいのです。

自分の思いが実装出来た時は達成感があり、頭は使いますがとても楽しいと思いました。

私がホームページの制作を一人で仕事として受けようと思った時、そこで私に立ちはだかる壁が、「未経験」という言葉に縛られ自信が持てず一人悩んでいました。

SNS発信

最初の壁は、仕事をどうやってとっていくんだろうという事です。

今までの繋がりとか何もなく、それこそ本当に私一人でできるのだろうかという不安もありました。

色々調べていくと、クラウドソーシングサイトに登録する、Twitter、Instagramからお仕事の依頼があるということが分かりました。

早速クラウドソーシングサイトに登録をしましたが、お仕事の検索をするだけで一日の大半を費やしてしまう。

おまけに、怪しい説明会に参加しそうになったり、プログラミングのコンテンツを購入してしまったり、一気に疲れてしまいました。

もしかすると、今の自分にはまだまだ知識が足りないのではないか、もう一度自分で勉強し直してみよう。

その時は一生懸命でしたが、結局いくら勉強しても実践が大事だということになかなか気付けませんでした。

SNSで自分自身を発信をすることにも抵抗があり、私が私の何について発信していいのかも分からないし、自分を売り込むことも苦手だと思っていました。

Instagramも毎日投稿、いいねまわりやコメントをしたり、”やらなければいけない”という感覚が私には楽しいと思えず、私らしい発信ではないと思いすぐに投稿できなくなってしまいました。

私が私らしく、ワクワクして楽しい事は一体何だろう?以前のようにバリバリと仕事をしたいけど、私は何がしたいのか分からず悩んでいました。

私はillustratorで図形などを作ることが楽しくて、YouTubeにヒントを求めていた時に曼荼羅と出会いました。

illustratorを使って自由に線を引いたり図形を組み合わせて曼荼羅が出来上がる様子に私も描いてみたいと思いました。

見様見真似で線や図形を使って描いてはみましたが、私なりの曼荼羅が描きたいと思い、illustratorでレースを作る過程からヒントを得て、文字を反転して回転することで曼荼羅をデザインすることに行きつきました。

レースも可憐で素敵ですが、私は神秘的な曼荼羅の模様に惹かれ見ていると心が落ち着き自分自身を取り戻していくような気持になりました。

曼荼羅には模様の波動とパワーからヒーリング効果や、曼荼羅セラピーで心身を整え本来の自分を取り戻す効果もあります。

私の曼荼羅作成の特徴は、illustratorで名前や生年月日で描くので世界であなただけのオリジナルの曼荼羅を作ることができます。

書体を変えるとまた違った模様になり、色味を変えたりグラデーションでイメージも変わります。

試行錯誤しながらも時間を忘れるほど楽しくて、私の心がワクワクして自然とSNSで疲弊した心も自然と癒えていきました。

この曼荼羅をたくさんの人に知ってもらいたい見てもらいたい、そして私が癒されたように私の曼荼羅でたくさんの人が癒され、心の安らぎを感じてもらいたいと思うようになりました。

私が私らしく楽しく自由な気持ちで言霊のパワーや曼荼羅のエネルギーをたくさんの人に届けたい。

TwitterとInstagram以外で発信できるプラットフォームは何だろう?

そこで閃いたのが、ピンタレストというSNSではなく、自分の好きな写真や画像を自分専用のボードにピン止めして、それをシェアできるサービスへの投稿を思い付きました。

大切にしたい私らしさ

私の描く曼荼羅を一人でも多くの人に知ってもらいたい、曼荼羅に限らず私の好きなモノを届けたいという思いでピンタレストへの投稿を始めましたが、今までに感じていた義務感も疲労感も全くなく「なんて楽しいんだろう」と思いました。

誰かの真似やみんながしているからではなく、私が私らしく楽しくワクワクすることではないと長続きしないのはよく分かっています。

私がストレスと闘いながら働いていた時、自然と惹かれていたラメやゴールドのキラキラしたモノに惹かれ癒される女性は多いと思います。

女性は宇宙などの神秘的な色や光に惹かれる傾向があり、それは生理や出産という神秘的な体験をするので、宇宙の一部に興味を持つ傾向があるからです。

好きなモノを身に着けたり身の回りにあると気分が上がります。

ストレスを抱えていたり悩みがあって落ち込んでいたり、そんな女性に好きなモノに気付いて欲しいという思いもあります。

私が子育てと仕事の両立に悩み夫婦関係に悩んでいた時、常に私が私らしくいたいと強く思っていました。

その私らしさに気付くまでには遠回りをしてきたのかもしれませんが、やる気さえあれば年齢は全く関係ないという思いで学んできました。

私と同じように色々悩み迷いながら自分探しをしている人、そして心の癒しを求めている方々に曼荼羅に癒しのエネルギーを込めて届けます。

私はいつまでもキラキラ輝く女性でいたいと思っているので、同じように輝く女性を応援しています。

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